山本文緒さんの『自転しながら公転する』を読みました。
山本文緒さんの作品を初めて読みましたが、またひとつ貴重な出会いをした気がします。
どんなおはなし?
女の生き方というのは、どうしてこんなにも選択肢が多いのだろう。
この世には、30歳を過ぎた多くの女性がぶち当たる壁があるのです。
主人公の都は高校を出て好きなアパレルブランドのアルバイト店員となり、そのまま社員として就職。30歳を過ぎた今もアパレル店員の道を歩み、すべてが順調とはいかないまでも、成り行きに従い、ここまで歩んできた平凡な女性です。
そんな都の人生ですが、母親が重度の更年期障害を患った頃から、少しずつ歯車が狂い出します。
毎日の家事と母親の看病、そして職場でのいざこざ。こんなジャグリングのような生活はやってられないよ、とひょんなことから出会った貫一に弱音を吐く都。「自転しながら公転してんだな」と返す貫一のその表現は言い得て妙。否応なしに流れていく世間の荒波の中で、自分の生活もちゃんと回していかなければならない現実は、きっと誰しも嘆きたくなるような瞬間があるでしょう。
いつしか貫一との時間が現実逃避となり浮かれる都でしたが、結局その関係にも現実を見なければいけないタイミングがやってきます。
自分は結婚したいのか、子どもは欲しいのか、この仕事を続けたいのか。
のらりくらり生きてきた都ですが、すべては自分で選択しなければ、何も得られないのだと今さらながら気づき狼狽します。
生涯ひとりで生きていく勇気はないけれど、貫一との間に未来はあるのだろうか。中卒で求職中の寿司職人という、世間的にスペックの低い男との結婚には躊躇するものの、別れにまでは踏み切れない。都の心の揺れは客観的に見れば傲慢だと思うものの、私が都の立場なら同じように悩むだろうなと情けなくも共感し、さらに、友人のそよかの指摘が心に突き刺さります。
そう。貫一は決してダメ人間というわけではないのです。低収入ながらも当たり前のように父親の介護施設のお金を工面し、どこかで災害が起これば、職を辞してまでもボランティアに出向くような男です。将来を案じて無難な道を歩もうとする都と、いま大事なことを判断しサッと動ける貫一。はたして人間として大きいのは、強いのは、どちらなのだろう。都の自分の自信のなさは、ときに彼の人間性を疑わせ、ときに彼を憧れの対象にします。他人を測る尺度というものは、己の心の状態でずいぶんと変わるものだいうことを思い知らされます。
しかし、自分の弱さを自己完結できないのは貫一もまた同じなのです。君の思い描く未来に俺が適さないなら、俺の元から去っていけばいいというスタイルで都に判断を委ねる貫一。結局それは自分が傷つかないための予防線であり、身勝手ないい分だと都は真っ向からぶつかります。ふたりの決断は一体どこへ向かうのか。
共に生きていくとは何だろう。
足りないものを互いに補い合うことか、それとも同じ方向を見て歩むことなのか。
都と貫一の関係を見ながら、どうして人間には誰かと連れ合って生きていく決心に、こんなにも理屈が必要なのだろうかと不思議な気持ちになりました。
さてさて、私たち読者は冒頭の描写から、ある意味ミスリードされながら都の恋愛を追いかけます。私はこう推測しながら物語を読んでいました。
都と貫一は運命の相手ではない。しかし、これは人生のターニングポイントとなる大切な出会いであり、やがて自らの決断の末、それぞれの道を歩んでいく。これは、そういう運命を描く物語なのだと。
だから途中、都の優柔不断さに対して、「結局は自分の理想に従って相手を選ぶくせに」と皮肉めいた気持ちを持ったり、「あなたは幸せになる他の道をちゃんと選択するから大丈夫」と優しく見守るような目線を送ったりと、すべての成り行きを知る身の気分でいたのです。
しかし、最後まで読んだときに気づきます。
やはり運命などないのかもしれないと。
読者の想定を超えた都の決断が教えてくれます。
未来は何も決まっていない。いつでも選択した先に道が拓き、ただその道を前に進んでいくだけなのだと。
「別にそんなに幸せになろうとしなくていいのよ。」
結婚する娘にかける都の言葉が物語ります。自分の歩んだ道には苦労も多くあったが、自分の手で自分が思う正解にしていけばいい。この一言は強くなった都の姿をありありと浮かびあがらせます。
この物語はただの恋愛小説ではなく、自分の内面を写し出す鏡のような物語でありながら、自分の船を自分で漕ぐことの意義を終えてくれる大きな物語でした。
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