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小説

遠い山なみの光 カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロさんの『遠い山なみの光』を読みました。

1982年の長篇デビュー作です。
物語全体が薄暗く、暗いトンネルの中を歩いていくような物語でした。

どんなおはなし?

故国を去り英国に住む悦子は、娘の自殺に直面し、喪失感の中で自らの来し方に想いを馳せる。戦後まもない長崎で、悦子はある母娘に出会った。あてにならぬ男に未来を託そうとする母親と、不気味な幻影に怯える娘は、悦子の不安をかきたてた。だが、あの頃は誰もが傷つき、何とか立ち上がろうと懸命だったのだ。淡く微かな光を求めて生きる人々の姿を端正に描くデビュー作。王立文学協会賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

読んだ感想

人の記憶はとても不確かで歪みやすい。

あの頃を思い出しても、きっとあの頃に見たまま、感じたままを思い出すことはできないもの。そこに深い悲しみや後悔を抱えているなら、尚更そうかもしれません。

悦子は最初の夫との娘・景子を自殺で亡くします。その原因は直接は語られず、2人目の夫との娘・ニキとの会話、そして悦子が振り返る過去から読者は微かな胸騒ぎとともに、なんとなくその背景を察していくことになります。

悦子”自身”が振り返る過去。これがこの作品の鍵となります。

悦子が振り返るのは、まだ景子を妊娠中の頃で、夫や義父とも良好な関係のなかで過ごした長崎での日々。なかでも色濃く思い出すのは、その頃たまたま知り合った佐知子と万里子という母娘。悦子の記憶のなかの佐知子はとても頼りない。アメリカ人の男に振り回され、生活基盤は不安定。さらにまだ幼い万里子の世話もとてもおざなりに思えました。あるトラウマを引きずり幻覚に怯える万里子の精神的ケアも不十分なまま、ついに男と渡米することが自分たちにとって最善策だという始末。悦子は自分には理解できない彼女の言動を暗に非難しながらも見捨てることはできず、何かと手を貸しながら、この母娘とのひと夏が過ぎました。悦子はそんな遠い昔の記憶をずっと忘れられずにいたのです。

しかし、現在の悦子とニキとの会話から、悦子は長崎で景子を産んだその後、最初の夫とは別れ、英国人の男と渡英した末にニキを産んだことが読みとれます。

ここで、読者は少しの違和感を抱きます。

あんなに理解できずにいた佐知子と同じような道を悦子も辿っているではないか。

そして、ひとつの疑問が浮かぶのです。

果たしてこの佐知子と万里子という母娘は本当に存在したのだろうか。

ここは解釈がいろいろと分かれるところだと思います。

本当に存在していたけれど、親の都合に振り回され続けた万里子が、後に産まれた自分の娘の景子と重なり、その母娘を思い出すたびに景子の影が付き纏い、自責の念に駆られるという解釈。

あるいは、佐知子と万里子は全くの虚像であり、悦子が自分の過去を他人の行動として都合よく作り上げた記憶であるという解釈。実際、本文にはこのような記述もあり、悦子自身も記憶は不確かであるという暗示があります。

記憶というのは、たしかに当てにならないものだ。思い出すときの事情しだいで、ひどく彩りが変わってしまうことはめずらしくなくて、わたしが語ってきた思い出の中にも、そういうところがあるにちがいない。

いずれにせよ、直接は語られない悦子の半生は波乱に満ちており、そこに悦子はとても大きな後悔を背負っていることが分かります。

何を選択すれば良かったのか、なにが間違っていたのか。

あのときには見えなかったものが追憶の中から蘇る。

戦後という、思想や価値観が急激に変わり混乱する世の中。そんな時代を背景に必死に歩んできた悦子の姿を読者は彼女の記憶の断片から想像し、物語の暗いトンネルを静かに抜けるのです。

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